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2009.08.17

短編小説「エメラルドマウンテン」

IMGP6610v100 パーティションの向こうに、ゆっくりと手を上げている湯田の姿が見えた。外したヘッドホンから音楽がノイズとなって漏れ出してくる。そのシャカシャカとした音を聴いて、今朝、通勤電車の中で迷惑をまき散らしていた輩のことを思い出した。嫌な予感がした。

IMGP6610v100

PENTAX *ist DS + SIGMA 30mm F1.4 EX DC

「ちょっと見てもらいたいんですけど。これ、このやり方でいいですかね」
 彼はいつもそんな調子で訊いてくる。それを真に受けて正直に答えると後々の始末が悪い。湯田が入社してきて間もない頃、それが理解できなくて、正直に意見を言ったらエラい剣幕で怒り出してしまった。それだけじゃない、その後もしばらく口を利いてくれなくなり、職場の雰囲気が悪くなってしまったことが何度もあったのだ。
「いいんじゃない」
ひと言目は、見せられたコードがどんなに違うと思っても、そう言うように決めている。
「どうも」
湯田は、期待通りの返事をもらって満足げな顔をした。言おうか言うまいか少し迷ったが、
「このサブルーチンのところ、ちょっと賛成しかねるなぁ。俺のクラスライブラリ使う?」
「いや、自分で考えてみる」
「でも、あんまり時間ないし、他のところを頑張ってもらいたいんだよね」
「俺が綿辺さんのライブラリ使ったら、俺の評価はどうなっちゃうのよ?」
自分の評価がどうなるのかと言っているが、要は私の評価を上げることだけは真っ平御免だということに他ならない。今にも怒り出しそうな湯田の顔を見れば、それくらいのことは容易に分かる。
「それは他の部分でちゃんと…」
「仕事量が同じなのに、評価される部分が減るのは嫌なんです」
「だから…」
次の言葉を待たず、湯田はそそくさと踵を返して席に戻ってしまった。

 もうすっかり慣れてしまったが、自分が違うと思ったことを素直に言えないのは相当なストレスだ。世間というのは本音と建前で成り立っている可笑しな世界だが、自分が携わってきた仕事、計算して答えが出るような類いの話なら、そんな気遣いは無用だと思っていた。誰が見ても正しいと判断できることは、相手が誰でも正しいと言うべきだ。正しいという言い方が正しくないのなら、よりベターであるという言い方でも構わない。自分に正直に話すことで、たとえ相手が傷ついたとしても、結果的には相手の為になる、相手もいつかは判ってくれると信じてきた。

 自分で考えてみる? そんな無駄な時間は使わなくていい。今、会社にあるものはちゃんと利用してプロジェクトを進めて欲しい。全部自分で作るのが偉いってもんじゃないだろう。大切なのは高い品質を保った上で納期を守ることだ。結局、伝えたかったことは何ひとつ伝わらない。私は小さく溜息をついてデスクを離れた。オートロックの扉を開けると、そこはすぐにエレベーターホールになっている。ボタンを押そうとした瞬間、エレベータの扉が開いた。降りて来た庶務たちに軽く会釈をしたが、彼女たちはお喋りに夢中で私には気づかなかった。

 一人で最上階へ向かう。社屋は都内の一等地にあって、テレビドラマに出てきてもおかしくないくらいの瀟酒なビルだ。売店で缶珈琲を買い、いつもの様に窓際のカウンターに座った。遠くに六本木ヒルズと高層マンションが見える。タブを押し込んで珈琲を啜る。最近は、ジョージアのエメラルドマウンテンばかり飲んでいる。転職する前、仲の良かった同僚が好きだったのを思い出す。まだ 2 年も経っていないというのに、はるか遠い昔の出来事のようだ。缶珈琲は甘過ぎるからブラックに限ると言っていた自分も、ここへ来て変わってしまった。

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PENTAX *ist DS + smc PENTAX-DA 21mm F3.2 AL Limited

 大学を卒業し、真面目に仕事と向かい合ってきた。最初に就職した会社は、自由で和気あいあいとした家庭的な雰囲気が気に入って入社した。だが、腕が上がるにつれて成果よりも年功を重んじる社風が物足りなくなった。もっと成長したい、スキルを磨きたい、正しく平等に評価してもらいたいという気持ちでライバル会社に移籍。徹底した成果主義、誰もが納得できる評価制度、入社前はあれほど魅力的に思えたものが、これほど簡単に崩れ去るとは夢にも思わなかった。そもそも人間のすることに平等などということはあり得ない。自分が甘かった。

 人に何かを伝えることが、これほど難しいことなのか。人と話をするのが苦痛になる前のことが、全く思い出せない。どうすれば自分の想いが伝わるのか、どうやって会話をしていたのかすら思い出せないのだ。「珈琲は嗜好品だから、どんな銘柄を買おうが、どんな飲み方をしようが勝手だけどな」、独り言か愚痴かも分からないが言葉がついて出る。夕飯時まではまだ時間があるので、食堂には人影は疎らだった。煙草に火をつけると、煙は真っ直ぐに立ちのぼって、天井にあるスリットに静かに吸い込まれていった。

 デスクに戻ると、すぐに庶務の舩木さんがやってきた。春の人事異動で、彼女が総務から開発に来て半年も経っていないというのに、彼女の存在はすでにこのフロアに必要不可欠なものになっていた。いつも明るく優しい性格に誰もが癒されていた。私も多分に洩れず、彼女には普段からあれこれと愚痴を聴いてもらっている。プログラムの開発と違って、何が正しいのかも分からない下らない話を、自分の身の上に起こったことのように聴いてくれる彼女には頭が下がるばかりだ。どんな時でも清濁問わずに受け止めてくれる彼女に、私は救われていた。

「綿辺さん、何処行ってたんですか? もう、ずっと探してたんですよ」
「ん、食堂で休憩してたけど」
「離席するときは、庶務に行き先を言ってもらわないと困ります」
さっきエレベーターホールですれ違ったじゃない、そう言おうとしたが言葉を飲み込んだ。
「それで何か用事?」
「部長がお呼びです」
「何だろう。今日は会う予定入ってなかったけどな」
とぼけた振りをしてみたものの、大方の予想はついていた。担当するプロジェクトの進捗が芳しくないことは、すでに部内では公然の事実だ。遅かれ早かれ経営陣にも伝わる。部長も立場上対策を打たなければならない。プロジェクトリーダーを外されて降格という、正しい評価を受ける時が迫っていた。
「部長、ちょっと難しい顔してましたよ」
彼女は、その科白だけは口に手を当て、声を潜めて言った。
「綿辺さん、早く行った方が良いかも」
「ああ」
「私、今日は友人と会う用事があるので定時で失礼しますね。また明日」
私の曖昧な返事に、彼女は屈託のないいつもの笑顔でそう言った。

IMGP6456v100

PENTAX *ist DS + smc PENTAX-DA 21mm F3.2 AL Limited

 その後、私は品川に向かった。缶珈琲が好きだった同僚に無性に会いたくなってしまったのだ。退職してから一度も掛けたことがなかった元の職場に電話まで掛け、彼を呼び出してしまった。部長には急用ができたとメールを投げた。どうせ降格になるのなら、今日でも明日でも同じことだ。これまで生真面目に仕事に取り組んできた自分にこんな大胆さがあったのかと自分で自分に驚く。地下鉄を乗り継ぎ、待ち合わせ時間より少し前に着いた。京浜急行のくすんだ赤が懐かしい。長い一日の最後に、初めて心が安らいだような気がした。

 彼は約束の時間きっかりに現れた。会った瞬間から、気を遣ってくれているのが伝わってくる。あの頃とかけ離れてしまった今の自分の姿は、言葉を交わさずとも彼に届いてしまっていることは間違いない。
「武藤くん、今日はいきなり呼び出して、ごめん」
緊張して言葉がぎこちないのが自分でも分かる。
「全然大丈夫。綿辺くんはどう? 仕事は順調?」
訊かなくても分かるはずなのに、話しやすいように言葉をかけてくれる彼の優しさが心に沁みた。
「うん…、まあまあかな」

 周りからの慰留を無視し、職場が機能しなくなることも分かっていたのに、それまでの恩を仇で返すように職場を去ってしまった自分。今、弱い立場となり、彼らに助けを求めようとしている自分は余りにも身勝手だった。軽蔑されて然るべきだと思う。そして、この期に及んで見栄を張り「まあまあ」だなんて嘘をつく自分は、どこかが壊れてしまっているのだ。

「そっちの様子はどう?」
 彼は一瞬さみしそうな表情になり、少し言葉を躊躇ったように見えた。そして「綿辺くんが辞めてから開発チームがまとまらなくて大変だよ」と言った。あの頃と変わらない優しい語り口。
「いきなり辞めたから、みんな怒ってるでしょ?」
「それはない。綿辺くんがどういう気持ちで仕事に取り組んでいたか、みんな分かってるから」
「本当に?」
ウェイトレスが注文した珈琲をテーブルに運んでくる。私は自分の珈琲に砂糖とミルクを入れた。
「ブラックしか飲まなかったのに」
「エメラルドマウンテンブレンド、どんな風にして飲んでも美味いよ。遅ればせながらやっと気がついた」

 ずっと心配そうな表情だった武藤くんが、にこりと笑った。

IMGP5080v100

PENTAX *ist DS + smc PENTAX-DA 21mm F3.2 AL Limited

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コメント

はじめまして、Realbasicを調べていたらたどり着きました
(エントリとまったく関係ないお話ですみません)

ちょっと確認できないので質問させていただきます

公式サイトの宣伝にネイティブコードコンパイルされるとありましたが、
5か4くらいのRealbasicは中間コードを
インタプリタexeに埋め込んだ形だったと記憶しています
(インタプリタexeがネイティブなのでランタイム無しで動きますけど)

2009になってからは本当にネイティブコンパイルされるようになったのでしょうか?
となれば速度もかなり速くなったのでしょうか?

♪月夜さん

はじめまして。

REALbasic でコンパイルしたアプリケーションの実行速度ですが、
もちろん用途にはよると思いますが、問題ない速度だと思います。

ただ、音や画像でリアルタイムの処理が必要な場合には、
REALbasic だけでは難しいです。

以前、音関係のツールを開発していた時には、音の処理はプラグインで、
GUI その他を REALbasic で書いてました。

ん!?もう少し続きが読みたいです!

丁寧な描写がいいですね。きっとずいぶん夜更かしして推敲したのでしょう。:-)

思ったことを口に出せないストレス、ありますねえ。。。
そのもどかしさや苦しさを書くのは、ある意味辛い作業かもしれませんが、書くことによって自分に向き合えるのでしょうね。

書くことって大事ですね。

♪ bin_chan さん

書いてはじめて分かることってありますね。
自分と向き合うことはもちろんですが、自分が思っているほど書けないことや、
そもそもの語彙のなさなど。そして夜が更けていくのです。

これまで書いてきた、歌詞とは違う楽しさを発見したのも事実です。
これからも伝えたいテーマがあれば書いていきたいと思っています。
習作ばかりではありますが、おつき合いいただけるとうれしいです。

夏休みの宿題ということで、掌編小説のつもりでいましたが、
心の中に、これじゃあ完結してないだろという気持ちもありました。
リクエストをいただき、もう少し書いてみようという想いが強くなってきました。

続きはウェブで(笑)

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