自伝的短編小説「サラダ油記念日」
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何もない、ありふれた休日になるはずだった。昼下がりの陽射しで、ようやく部屋が暖かくなってきた。ベッドに寝転んでテレビを観ていた僕は、少しうとうとしていた。その時、同じ寮の四階に住む親友の岡崎が、ドアをノックするなり、僕が返事を返す間もなく入ってきた。
「安かったよー。マルキョーのサラダ油、一升瓶で 98 円だぜ」
「何が安かったって?」
僕の言葉が終わらないうちに、岡崎がマルキョーのレジ袋を部屋の入り口に勢い良く置いた。二十年以上も前に建てられた安普請の学生寮は、部屋といっても床はタイル仕上げで硬い。何かが割れるような鈍い音がした。嫌な予感がして振り向くと、そこには、割れた一升瓶がレジ袋を鋭く突き破っているのが見えた。
「あっ」
僕がそう言った瞬間、粘りのある液体が、みるみるうちにレジ袋から流れ始めた。
「おい、瓶割れたんじゃないのか」
「やば」
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岡崎は、一瞬何が起きたのかを理解できなかったようだったが、僕の言葉に我に返った。平和な休日は一瞬にして暗転した。一升瓶一本分のサラダ油が、すべて僕の部屋に流失してしまったのだ。雑巾で拭いても、新聞紙で吸い取っても、この事態を収拾することは永遠に不可能であるとさえ思えた。
岡崎は割れた瓶で手を切り、部屋は血と汗と油と失望感が混ざりあった、混沌とした状況だった。廊下の突き当たりにある洗面所と自分の部屋の間を、雑巾とバケツと新聞紙を持って何度往復しただろう。この虚しい努力が、未来永劫いつまでも続くのではないかという気さえした。
そのうち、騒ぎを聞きつけて、管理人のおばさんがやって来た。
「あらあらあらー、駄目じゃない植田さん」
「確かに僕の部屋ですけど、僕のせいじゃありません」
僕は苦笑いで岡崎に鋭い視線を投げかけたが、
「いやあ、ほんと大変っす。指切っちゃって」
「あらあら大変、岡崎さん大丈夫?」
「大変なのは僕です(心の声)」
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おばさんの加勢もあって、何とか復旧の目処がたった頃、特徴のあるスリッパの音が部屋に近づいて来た。朝から出掛けていた同室の吉岡だった。その足音は部屋の前で止まり、一瞬、ドアを開けるのを躊躇ったようだった。
「何か嫌な予感がする」
ドアの向こうで彼が発した言葉は、小さいながらもはっきりと聴き取れた。
「その予感は正しいよ。なあ、岡崎」
僕は、少しの意地悪と嫌味を込めてそう言ったが
「いやあ、ほんと大変だったよ。油って、こぼしたらどうしようもないね」
岡崎は、怪我をした指にはった絆創膏に目をやりながら飄々と言った。確かにどうしようもない。でも、こぼしたのは誰だよ。と言うか、これはこぼしたとは言わないぞ。僕は心の中でそう呟いた。
その日の夜、寮で一番に風呂に入ったのはもちろん僕だった。いつもより念入りに手足を洗ってはみたものの、風呂から上がった後も油が手足に染み込んでいるようで、ねばねばして仕方がなかった。部屋に戻る前に、一階の洗面所でもう一度、手と足を洗うことにした。そこへ、ちょうど風呂上がりの岡崎が通りかかった。
「どうしたの?」
「何か、手足がネバネバするんだよね」
「大変だね」
「大変だねって(苦笑)」
「こぼれたのが牛乳とかだったら、臭いだけで済んだのにね」
「こぼれたのがって、こぼしたの誰だよ」
「じゃ、おつかれ」
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時は流れ、岡崎は大学を卒業して就職。僕は大学院に進学して二年遅れで就職、同じ東京の地で働くようになった。就職してからは、お互いに仕事も忙しく、そう頻繁に会うことはなかったのだが、久し振りに会う機会が訪れた。彼が結婚後、転居して偶然近くに住むことになったからだ。
新居に遊びに来ないかと誘われたので、手土産は何にしようかと考えた末、サラダ油にした。
「結婚おめでとう」
「ありがとう」
「これ、たいしたもんじゃないけど」
「何これ(笑)」
「割れたらいけないと思って、瓶じゃなくて、ペットボトルにしたから」
「そ、そうだね(苦笑)」
何も知らない彼の奥さんは、「すみません、助かります」と素敵な笑顔で迎えてくれた。その日の食事は、どうして手土産がサラダ油だったかを、詳細に説明しておおいに盛り上がったのは言うまでもない。
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冬になるとあの日を思い出す。記念日と言うからには、もう少しロマンティックな出来事の方が似つかわしいのだろうが、今となっては、あんな事件でもキラキラと輝いて見えるのだから不思議なものだ。目を閉じれば、あの時の風景がよみがえる。マルキョーでは、今でもサラダ油を安売りしているのだろうか。
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コメント
かつてこれほど魂を揺さぶる青春小説があっただろうか。
何気ない、ほんのささいな、取るに足らない日常のひとコマが、著者の豊かに膨らませたイメージにより生き生きとした躍動感を与えられ、すべての40代が心の奥底に横たえているノスタルジィを呼び覚ました。
「自伝的」とは銘打っているが、もちろんこの種の作の例に漏れず、著者の自由な創造性が惜しみなく注がれていることには留意する必要があろう。
とはいえ、物語の実質的な主役と言っていい「岡崎」には共感を覚える。彼がかなり無責任に感じられるのは著者のデフォルメであろうが、その飄々とした言葉の中に狼狽と悔恨が見えてとれ、逆に涙を禁じえない。しかし恐らく、その「失敗」が著者を始めとして多くの人の心を和ませ、明日への生きる活力を与え続けてきたことに、彼がせめてもの慰めを得ていると思うのは穿ち過ぎであろうか。
いずれにしても、著者の今後を大いに期待できる逸作である。
投稿: ねりまん | 2008.12.15 08:33
あははははは、、お腹痛い。
良い思い出やねー。
って読んでたら、ねりまん登場やし(爆)
らしすぎて、笑いが止まらん(爆)
あーーー、AD20で集まって呑みたかぁ~。
まじで。
投稿: K-5 | 2008.12.15 21:57
ついこないだ実家に帰った時に、マルキョーでツナ缶買って、トンノ唐辛子入りを作って母親と子供たちに振舞ったところでした。
サラダ油のくだりは今知ったんですけど...ぷっ(笑)。だったらサラダ油買っとくんだったなぁ。
ちょっと気分が若返りました。今のご時勢、何の油なんだか...ちょっと怖いけど、きっとあの当時はまじりっけ無しだったんだと信じます。
投稿: yanp | 2008.12.17 22:16
あはは。この話は有名でしたねー。
そういえば「ダマルキョー」なんて広告が某新聞に載っていたような。。。
投稿: bin_chan | 2008.12.25 23:03
♪ねりまんさん、K-5 さん、yanp さん、bin_chan さん
みんなありがとう。来年は、そろそろ集まって呑みましょう。昼間は大橋で食べ歩きツアーなんてどうでしょう。ポモドーロ、CHITO、ちじわ、蕎麦の井・・・。懐かしいですね。
投稿: 現代音協楽 | 2008.12.31 14:14