社説:かわいい子には足袋を履かせよう
その男の子は、決して勉強の出来ない子供ではない。計算問題を解かせても非常に優秀で、恐らく学校でもトップクラスであろうと思われた。私は、一日一枚のプリントを用意し、4 年生の復習を彼に課したのだが、どうやら彼には簡単過ぎるのか、やる気が無い。私も無理にとはと思ったが、立場上
「一枚だけだから、すぐに終わらせよう! 宿題は嫌だろ?」
と言ったところ、彼は
「宿題がいい」
と言うのである。私は不思議に思い、その理由をたずねてみた。
「どうせ 3 時間勉強しなくちゃだめだから。お父さんが 3 時間勉強しろって。お母さんもそう言う」
彼の話を総合すると、どうやら 3 時間という勉強時間は嘘ではないらしい。彼は 3 年生の時から学校の宿題以外に、休みの日は 3 時間、普段も少なくとも 1 時間は机に向かうという。勉強の後に、両親がチェックするから嘘はつけないという。勉強しなかった時には、お父さんが怒るから恐いと言った。
「学校で勉強したこと分かる?」
私は彼にたずねてみた。彼は分かると言った。
「それなら、家では宿題以外は勉強しなくていいんだよ」
と言うと、彼は
「どうして」
と、不思議そうな顔をした。
勉強というものは、机に向かってするものばかりではない。教科書と鉛筆とでできる勉強などは、勉強のほんの一部である。学校で勉強できることは、卒業してから学ぶことにくらべれば、本当にわずかなものである。それよりも、友達との友情の中から、喧嘩の中から、家族とのふれあいの中から、また恋愛の中から学ぶことの方が、どれほど多く大切だろうか。学校のテストで測れる能力は、子供たちのほんの一部分でしかない。
しかし、現在の学歴偏重主義は、とにかく偏差値の高い高校、そして偏差値の高い大学へ入学しさえすれば人生が保証されるであろうなどという誤った認識を世間一般に植え付けてしまったように思う。小学校の低学年の頃から有名(大学合格者が多数でるという意味で)中学を目指して受験勉強を子供に課す。
その結果、確かにペーパーテストは得意だが、自分で考えたり探ったりする能力が欠如し、創造力のない受け身でしか行動できない子供が多くなってはいないだろうか。子供たちを、学力でしか人の存在価値を判断できない、ワンパターンの人間にしてしまってはいないだろうか
生きるということは、様々な価値観を持った人々とふれあうことから自分の存在を確認し、そして他人の存在をも認めることである。人間には本当に様々な能力があるということを認めることである。学術、スポーツ、音楽、美術、一人一人に好きなもの得意なものがあり、それらに決して優劣はない。それが個性というものなのだ。そんな当たり前のことが、今日忘れられようとしている。大人たちよ、もう一度生きるとは何かを考え直そうではないか。
生まれ来る子供たちのために。
1992 年 4 月吉日発行:菅谷日報より
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