20 年の歳月が流れて
御巣鷹山の日航機墜落事故から、20 年の月日が経ちました。
当時、私は予備校に通う浪人生でした。大学受験に失敗した後、思う所があって自宅を出て、一人暮らしをしていました。自分の我がままから家を出たので、親から仕送りをしてもらう訳にはいかず、新聞配達をして学費と生活費を稼いでいました。日航機墜落事故は、そんなさなかに起きたのです。
その日の朝、私はいつもより早く目覚めました。いつもなら、午前 4 時にセットした目覚まし時計の力を借りて起きるのですが、その日は違いました。前日の夜、羽田発伊丹行きの日航機が消息を絶ったというニュースが気になっていたのです。アパートを出て販売店へ向かいました。店に着いたのが午前 4 時前だったので、「今朝は早いな」と声を掛けられたのを憶えています。
早く店に着いたので、まだ自分の新聞が仕分けられていませんでした。私は待っていられずに、店に届けられたばかりの新聞の大きな束から、自分が配達する新聞を抜き取りました。そして飛び込んで来たのが、"524 人乗り日航機墜落" という大きな見出しでした。大変なことになったと思いました。慣れているはずの広告を新聞に挟む作業も、手が震えてうまくできませんでした。
しばらくの間、新聞は事故で埋め尽くされていました。悲劇を伝える記事に、配っている自分でさえいたたまれない気持ちになったのですから、犠牲者のご家族の気持ちはいかばかりかと。私にできることは、涙を流すことしかありませんでした。大学合格だけを考えて生きていた自分にとって、あまり世間の出来事に関心を持つことが無かった一年でしたが、この事故だけは、これまでも、そしてこれからも忘れることは無いでしょう。
最後になりましたが、犠牲になられた 520 名の方々のご冥福をお祈りいたします。どんなに長い年月が経とうと、遺族の方々の苦しみは消えません。このような悲劇を繰り返してはいけません。言い尽くされた言葉ですが、それを実現することがいかに難しいかは、忘れた頃に起きてしまう惨事が物語っています。目先の利益よりも、安全を最優先した運行を行っていただくことを願ってやみません。
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今日、
8月12日は、
あの日航123便が群馬県の..... [続きを読む]

先週は出張で週末東京でした。
金曜日の夕方...20年前に墜落したこの飛行機に
乗り込み、大阪へ帰りました。
考え深いものがありました。帰ってから特別番組
でフライトレコーダーの中のやり取りを聞くことが
ありましたが、他人事とは言えなんとも言えない
心境になりました。
家族持ちになってからこの手のものには大変
センシティブになっていますね。
投稿: パチ夫 | 2005.08.14 02:53
♪パチ夫さん
そうですか、同じ便に乗られましたか。フライトレコーダーは言葉を
失いますね。それぞれが、あの時間をどんな想いで過ごしたのかと
思うと…。本当に何が起きるか分からないのが人生としか言えません。
与えられた日々を、精一杯頑張って生きなければと思います。
投稿: 現代音協楽 | 2005.08.18 00:17